創園者 金刺平作翁について
駿豆学園創設者 金刺平作氏について
昭和22年田方郡西豆村役場に奉職され、昭和31年町村合併により田方郡土肥町役場勤務となり、
総務課長、住民課長、災害復興課長などの職を歴任された。
住民課長の時、障害を持つ児童の親たちの悩み、不安などに接しなんとか力になりたいと知的障害児
入所施設「駿豆学園」の創設を決心され、6,000㎡以上の自らの土地を施設のために提供した。氏が土地
提供を決心されても学園建設までは多くの難関があり、地元の関係者でも施設建設に反対する人もいた。
このなかで最後まで屈しなかった氏の決意の固さが大きな力となり数多くの人の協力と応援がよせられ
静岡県東部3郡の町村による一部事務組合「駿豆学園管理組合」が昭和45年に静岡県知事より認可さ
れ、駿豆学園が建設された。
氏は、土肥町役場の総務課長という職を辞して駿豆学園園長に就任し、自ら障害児の支援、指導に当た
り、昭和51年より静岡県愛護協会(現在は、静岡県知的障害者福祉協会)の二代目の会長として亡くな
られるまでの8年間静岡県の福祉を牽引した。
昭和58年7月上旬、「ちょっと東京に検査に行ってくるよ。」と言って上京し、昭和58年9月16日検査入院した病院で腎不全のため急逝される。
遺稿 幸福について
金刺 平作
人は誰でも幸せになりたい願望をもっていると思う。だがほんとうの幸せって何だろうか、
誰もわかっていないだろう。
若し自分が幸せになるために他人が不幸になるとしたら、その人を見捨てて自分だけの幸福感に満足出来るだろうか。
病み傷ついた人を励まし、助け起こすことは誰でも出来るが、人の不幸を軽くするために自分の生涯を捧げることが出来るだろうか。
物質万能のこの世の中に、不幸にも障害を背負って生まれた児者のその障害を、少しでも軽くすることにその生涯を捧げることが出来たら、これ以上の幸せはないと思う。
これは誰にも出来ることではないからである。
この遺稿は、氏の没後、園長室の机の中からエンピツ書きのメモとして出てきたものである。検査が終わればすぐ帰園するつもりでいたのが不帰の客となられた。62歳というあまりにも早い、あまりにもおしい旅立ちであった。
※ 表現の中に一部現在では使用していない表現が含まれます。ご了承ください。